8話
・・・環境はどんどん整えられてゆく。
高野家と河田家との婚約は、上流社会の人達にも正式に発表された。
結婚式の日取りも決まった。
身動きできなくなってゆく環境の中で、大学に進学した先で新しくできた友人にも、『いいなあ。』なんて言われた。
空虚な笑みで返す茉莉は、友人達から、はにかんでいると勘違いされる一幕もあり・・。
父から何気ない用事を言いつかって、河田の家に行った時の事だった。
武雄の婚約者である茉莉は、家人に断らなくても、二階に上がることは許されていて、その時も茉莉は気軽な気持ちで、武雄の部屋に向かって行ったのだった。
武雄の姿はすぐに見つかった。彼は庭を歩いていた。
部屋の窓から、それを見つけて声をかけようとして、言葉が詰まる。
なぜなら、彼は一人ではなかったからだ。
メイドと一緒に歩いていた。
顔形、なにもかも平凡で、特徴のない女性だった。
そんな彼女に向ける武雄の瞳が・・・。
茉莉の見たことのない色を宿していた。
とても強く、彼女を求める視線には、まぎれもない感情が込められていて・・。
(私には、そんな瞳を向けないのに・・。)
兄を見上げるメイドの視線もひたむきだ。
二人のただならぬ雰囲気に、茉莉の中で警鐘が鳴った。
しかし、メイドと河田家の次期当主が一緒になるなど無理な話。よくて彼女は愛妾どまりだ。
『正妻の座に就くのは、自分。』
と心の中でつぶやくものの、胸の中は寂しい風が吹く。
そんな茉莉の気持ちを、まるで表現したかのようなピアノの旋律が流れだしたのでハッとなる。
防音設備を施してあっても、扉が開いているからだろう。
ピアノの音は、切なく、哀しかった。
フラフラ・・と、呼び寄せられるようにして、廊下を横切り、グランドピアノのある部屋に入ってゆく。
ピアノを弾いていたのは歩だった。
シャンと背筋を伸ばして、鍵盤を弾く指の動きは、優しくて彼らしいタッチだ。
(ショパンの ワルツ 。変イ長調,『 別れ』・・だわ・・。)
とても有名な曲。
少しアレンジが加えられていた。
歩は、茉莉に気付いていないらしい。自分の世界に浸ってつま弾くメロディは、ダイレクトに茉莉にも届いた。
気がつくと、彼の横に立って、自らも鍵盤をたたいていた。
彼のメロディに、自分の音を加えたくなってしまったのだ。
一音一音、控えめに音を加えると、そこでハッとなった歩が茉莉の姿を認めて、とても驚いた顔をする。
「・・進めて・・歩さん。」
小さく囁くと、歩は了承したようで、コクリとつぶやくと、腰をずらして、茉莉も座るように促してくる。
横に座って、再びさっきの曲を弾き始めた歩に、茉莉も音階の違うそっくりなメロディを添えた。
曲が進むにつれて、お互いに自由に曲をアレンジする。
茉莉の音に、歩が答える。二人の音が重なる。
切ない、哀しい曲調が、いつの間にか明るい、軽快な響きをともなった曲に変化していた・・・。
「あぁー!茉莉。」
突然、叫び声を上げて抱きついてくる歩のおかげで、曲はストップしてしまった。
「兄貴なんてやめろよ。俺と一緒になる方がいいとは思わないか?
兄貴なんかより、俺と共に音を重ねる生活の方が、茉莉は幸せになれるよ。
・・・今なら間に合う。
茉莉は、兄貴の事、これっぽちも想っていなんだから・・。」
抱きしめられて、そんな言葉を投げかけられて、茉莉はうめき声を発した。
「・・・私はお慕い申しあげておりますわよ。武雄さんの事を。」
歩の前では、こんな言葉を使うと、なぜだか白々しく響く。
「え?でも、兄貴は・・。」
言葉を繋げようとする歩の言葉を、これ以上聞きたくはなかった。
ついさっき、武雄と、彼が愛する女性と歩く姿を、目撃していたから。
茉莉も知ってしまっていたから・・。
「私をものにしたかったら、二男じゃダメだわ。
・・・この家を継ぐことね。」
と、残酷なセリフを吐いて、また彼の元から去ってしまった茉莉なのだった。
ボー然とたたずむ歩の姿を残し・・・。
廊下を歩く茉莉は、さすがに自らの言葉の強さに、愕然となってしまったほどだった。
あの言葉は、つい吐いてしまった茉莉の願望だったから。
・・・・ひまわりが一番好きだと言った歩。
必死に取り繕う”高野茉莉“の素顔を見抜いた歩。
誰よりも繊細で、優しい。感受性の豊かな彼だからこそ、茉莉の事が分かったのだ。
人の頂点に立つ事よりも、庭をいじって、花々を咲かせるのが趣味の歩。
口が旨いのは、初めから分かっていた事だった。
けれども、淀みなくささやき続ける彼の言葉は、茉莉の心の奥底まで届いて、揺さぶる力を持っていた。
けれど、茉莉は高野の娘。自由な結婚は許されなかった。
それに、河田のような家の元へ嫁いでこそ、祖母の元で暮らした努力の日々が、意味をなしてくるのである。
途中で、祖母を亡くしているので、自信がないのが、正直なところだったが・・。
あの日々を無駄にしたくはなかった。
だから・・・。
歩に『家を継げ。』と言ってしまった。
無茶苦茶な話だ。
そして・・・。
(武雄さんより、私。歩さんの事の方が好きなんだ・・。)
武雄との結婚の話をされた時、気が進まなかったのは、単純にこのせいだったのだと気付いて、笑いそうになった。
家に呪縛されるだの。格式のある家に嫁いで務まるかどうだの・・・問題を山ほど上げていて、結局の所、根本は一つだったのだ。
成就しない想いを抱いて嘆いていた。
まるで子供のようだ。
夫となる人の弟に想いをよせる自分って・・・。
(結婚する前から、高野の嫁として、失格じゃない・・。)
失格だからと言って、自分からその事をカミングアウトするつもりなんて、サラサラなかった。
茉莉は、高野家から持参した包みを、丁度廊下を歩いていた執事に手渡して河田邸を後にする。
そうやって、あくまで武雄の妻としての責務を、まっとうする未来を、進んでゆく茉莉なのだった。